週に一度の買い物の日、私はメモのとおりに詰めたかごを提げて、レジの列に並んでいた。順番が近づき、財布を開きかけたところで、端末の小さな画面に「有効期限が本日までのポイントがあります」という一行が出た。わずかな額である。同じ額を「もらえます」と言われていたら、たぶん私は気にも留めなかった。けれど「消える」と知らされた瞬間、財布を持つ手が止まり、目はもう、列の脇の棚に並んだ菓子のほうへ泳いでいた。メモにないものを、ひとつ足す理由を探しはじめていたのだ。

「損」という一文字

「損失回避」という言葉を、私は長いこと、損をするのが嫌いな性分、くらいの意味で受け取っていた。行動経済学の本を何冊も編集しておきながら、である。あらためて言葉をほどくと、もう少し細かな手ざわりがある。損失回避とは、同じ大きさの得と損を並べたとき、損のほうをより重く受け止める心の傾きのことだ。好き嫌いというより、心の秤の目盛りが、損の側でだけ細かく刻まれているようなものなのだと思う。

この考え方の土台にあるのが、カーネマンとトヴェルスキーが1979年に発表したプロスペクト理論の論文である。不確かな選択を前にした人が、損得をどう見積もっているのかを、いくつもの問いを通して描き出そうとした仕事だ。

物差しの起点

その論文で私がいちばん唸ったのは、損得を測る物差しの起点についての説明だった。人は、最終的に手元にいくら残るかだけで物事を評価しているわけではない。いまの状態や、こうなるはずだという期待を「参照点」として、そこからどれだけ増えたか、減ったかで判断している、というのである。

起点を示す一本の線の前で、小石を載せた古い天秤が片側に傾く損失回避の心理の演出イメージ

しかも、その物差しの目盛りは均一ではない。得の側では、増えるほど一つ分の喜びは薄くなり、損の側でも、損が大きくなるにつれて一つ分の痛みの増え方はゆるやかになっていく。ところが参照点のすぐそば、ほんの少し得をするか損をするかという境目では、損の側の傾きのほうが急になる。レジ前で消えかけたわずかなポイントがやけに気になったのは、ちょうどその境目に立っていたからなのだろう。

八割と九十二パーセント

論文には、よく引かれる実験がある。四千を八割の確率で得る賭けと、確実な三千を受け取る道とを九十五人に比べてもらうと、八割の人が確実な三千を選んだ。ところが同じ数字を損に裏返し、四千を八割の確率で失う賭けと、確実な三千の損とを並べると、こちらも九十五人を対象にした問いで、九十二パーセントが賭けのほうを選んだという。

得が見えている場面では手堅く、損が見えている場面では、小さな損を確定させるより、より大きな損を確率に預けてしまう。さらに、最終的な資産の結果が同じでも、それを得として示すか損として示すかで、選ばれ方が変わることも示されている。数字は同じでも、言葉の置き方ひとつで、人の手は別の方へ伸びる。

棚の前、画面の前

日々の買い物に引き寄せてみると、思い当たる場面は多い。値下げで得をするうれしさより、いま買わなければ手に入らなくなる、明日から値上がりする、という損を避けたい気持ちのほうが、財布を開かせることがある。私が「限定」という言葉にめっぽう弱く、使いもしない万年筆を五本も抱えているのも、この傾きでいくらか説明がつきそうな気がする。もっとも、ひとつの買い物にはいくつもの事情が重なっていて、損失回避だけがそれを決めているとは言えない。

ここからは、私がこしらえた例として読んでほしい。値下がりした株を持ち続けている人がいるとする。買ったときの値段が参照点になり、売れば損が確定してしまう。その痛みを避けたい気持ちは、損の出た資産を手放せない行動の説明として、新宿区新宿自治創造研究所の解説資料にも挙げられている。ただ、この言葉だけで誰かの投資判断の良し悪しを診断したり、この先の値動きを読んだりすることはできない。買い物や投資で判断がゆがむほかのクセについては、行動経済学の代表的なクセを並べた文章にも書いた。

傾きの個人差

秤の傾き具合は、人によって違うらしい。コロンビア大学ビジネススクールが2017年に紹介した研究では、オーストリア、ドイツ、スイスの自動車購入者360人と、米国の17,000世帯のデータが使われている。車の知識や運転の経験、家計でのお金の経験が多い人では損失回避が弱く、年齢が高い人では強い傾向が見られたという。四十代の後半に差しかかった私の秤は、さて、いまどちらへ動いているのだろう。

三つに分けるメモ

自分の傾きをまっすぐに直す方法を、私は知らない。ただ、参照点とフレーミングという考え方をたどっていくと、ひとつの判断をいくつかに分けて書き出す、という小さな手順が思い浮かぶ。

  1. 金額や期限、条件など、事実として言えることを書く。
  2. そこで感じている「損をしたくない」気持ちを、飾らずに言葉にして書く。
  3. 物差しの起点をずらし、たとえば何も持っていない状態から考えても同じものを選ぶかを書く。

レジ前のあの一行に当てはめるなら、一つ目は「わずかなポイントが今日で消える」、二つ目は「なんとなく惜しい」、三つ目は「ポイントがない状態で、この菓子を手に取るか」になる。三つ目の欄に何を書くかで、ペンはしばらく止まりそうだ。

余白

損失回避という言葉は、人を責めるための名札ではないのだと思う。秤がどちらに傾いているかを知ったところで、傾きそのものが消えるわけではない。それでも、傾いていると知ったうえで棚の前に立つのと、知らずに立つのとでは、財布を開くまでの数秒の中身が、ほんの少しだけ違ってくるのかもしれない。