「会社の収入だけで、この先ほんとうに大丈夫なのかな」
そんな一言を、朝の喫茶店で隣の席から聞いた、という場面を思い浮かべてみる。実際に耳にしたわけではなく、原稿の手を止めたときに私が頭の中で組み立てた光景で、この文章に出てくる人たちもみな、そうした想像の中の人である。それでもこの一言は、妙に具体的な手ざわりをもって耳に残る。問いの形をしていながら、答えを求めているようには聞こえない。コーヒーの湯気の向こうへ、ひとりごとのように放たれて、そのまま宙に浮いている。
私は出版社で十八年、実用書の編集をしてから、いまはフリーで編集と書きものをしている。毎月決まった額が振り込まれていたころと今とで、この言葉の聞こえ方はたぶん少し違う。けれど、どちらの立場にいても、この一言がふいに胸をよぎる朝というものはある気がする。ここでは、その一言が生まれそうな三つの場面を並べてみたい。
閉じた明細
一つ目は、二十代の終わりくらいの人が、休日の朝に給与明細を開いている場面だ。額面と手取りの差を眺め、家賃と通信費と日々の食費を頭の中で引き算して、画面を閉じる。困っているわけではない。今月も来月も、おそらく同じように暮らしていける。ただ、その「おそらく」の先に何年分の時間が続いているのかを考えはじめると、指先が少し冷える。
この冷え方は、ひとりだけのものではないらしい。日本FP協会が収入のある仕事をしている二十代から三十代を対象に行った意識調査では、将来のお金に対して漠然とした不安があると答えた人が82%にのぼったという(2023年11月公表)。八割という数字を前にすると、不安を抱えていることのほうが、この年代ではむしろ普通の状態なのかもしれないと思えてくる。漠然、という言葉が選ばれているのも印象に残る。何が怖いのかを名指しできないまま、明細を閉じる手だけが、ほんの少し重くなる。
夜の検索窓
二つ目は、平日の夜、布団に入ってからスマートフォンで「副業」と打ち込む人の場面だ。候補に並ぶ言葉を上からたどり、いくつかのページを開き、結局どれにも手を伸ばさずに画面を伏せる。翌朝、通勤電車の中で、昨夜の検索履歴がそのまま残っているのを見つけて、少しばつの悪い気持ちになる。
この人が特別に慎重なわけでも、特別に焦っているわけでもないのだろう。厚生労働省は2018年1月に副業・兼業の促進に関するガイドラインをまとめ、2020年9月と2022年7月にも改定している。会社の外に収入の口を持つことは、制度の上でも後押しされる方向にある。総務省の令和4年就業構造基本調査を紹介した求人ボックスジャーナルの記事によれば、副業を持つ人は約305万人で、5年前より60万人増え、副業を希望する人は約493万人にのぼるという。
数字を並べてみて目にとまるのは、すでに副業をしている人よりも、希望している人のほうが多いということだ。検索窓に言葉を打ち込み、ページを開き、閉じる。その往復のなかにいる人は、私が想像するよりずっと多いのだろう。動き出した人の数と、動き出しかけて立ち止まっている人の数。その隔たりのあたりに、夜の検索窓の青白い光がある。
更新の封筒
三つ目は、契約社員として働く人が、契約更新の書類の入った封筒を受け取る場面だ。封筒は薄く、中身もおそらくいつもと同じで、署名をして返せば次の期間が始まる。それでも封を切るまでの数秒、机の上で指が止まる。
厚生労働省の令和5年労働安全衛生調査では、現在の仕事や職業生活に強い不安や悩み、ストレスを感じている労働者は82.7%だった。就業形態別に見ると、契約社員では「雇用の安定性」が38.2%と、ほかの就業形態とは違ってこれが最も多い項目になっている(2024年7月公表の調査の紹介記事)。
会社からの収入に暮らしを預けているという点では、正社員も契約社員も変わらない。違うのは、その収入がいつまで続くのかを、書類という形で定期的に目の前に置かれるかどうかだ。封筒の薄さは、ふだんは意識の外にある前提を、紙一枚の厚みで思い出させる。
三つに通うもの
明細を閉じる手、検索窓を伏せる手、封筒の前で止まる手。三つの場面を並べてみて気づくのは、どの人もまだ何も失っていないということだ。給与は振り込まれ、契約は更新され、暮らしは今日も続いている。不安が向いているのは、起きたことではなく、起きるかもしれないことのほうである。
損をめぐる人の心の動きについては、ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが1979年に発表したプロスペクト理論がよく知られている。コロンビア大学の紹介にもあるように、人は利益を得る場面では慎重になり、損失を避けようとする場面ではかえってリスクを取りやすくなる傾向があるとされ、損を過大に恐れるこの傾きは損失回避と呼ばれている。判断をゆがめるほかの代表的なクセについては、以前行動経済学で知られる判断のクセをまとめた文章にも書いた。
もっとも、この理論を三つの場面にそのまま重ねるのは乱暴だろう。研究が扱っているのは選択肢を前にしたときの判断の傾きであって、休日の朝の冷えや、夜の検索窓の光そのものを説明するものではない。それでも、今あるものを手放すかもしれないという想像が、何かを得られるかもしれないという想像より強く残ることがある、という見立ては、三つの場面を眺めるための一枚のレンズにはなる。副業を望みながら立ち止まる人の多さを、踏み出せない弱さとして片づけるより、今の暮らしを崩さないための慎重さとして眺めるほうが、私には実感に近い。
引き出しの万年筆
自分のことも書いておく。私の机の引き出しには、ほとんど使っていない万年筆が五本ある。どれも「限定」という言葉に背中を押されて買ったものだ。いま買わなければ二度と手に入らない、という想像は、手に入れたあとに紙の上で使う場面の想像よりも、ずっと鮮やかだった。
編集を担当した本に載っていた節約術を自分で試して、三か月で投げ出したこともある。あのときも、使わずに済んだお金の手ごたえより、我慢しているあいだに取り逃がしているものの気配のほうが、毎日少しずつ重くなっていった。
だからといって、三つの場面の人たちが抱える不安を、私の万年筆と同じ棚に並べるつもりはない。暮らしの土台にかかわる不安と、限定品を逃す惜しさとでは、重さがまるで違う。ただ、どちらにも、まだ起きていない喪失の像が、目の前の現実より先に心を占めてしまうという順番が通っているように思える。週に一度の買い物にメモを持っていくようになり、月替わりの「買わない実験」も六年目に入った。紙に書いておくと、棚の前で膨らむ想像が、少しだけ手元に戻ってくる。
朝の問い
最初の一言に戻る。「会社の収入だけで、この先ほんとうに大丈夫なのかな」。この問いに、統計は答えてくれない。八割の人が不安を感じていると知っても自分の不安が軽くなるわけではないし、副業を持つ人が増えていると知っても、自分が何を始めればいいのかはどこにも書かれていない。
ただ、三つの場面を並べたあとでは、この問いの形が少し違って見えてくる。「大丈夫か」と口にするとき、人は何を失うことを思い浮かべているのだろう。収入という数字そのものなのか、今の暮らしの手ざわりなのか、それとも、まだ選んでいない別の道なのか。
もしも明日の朝、同じ一言がふと自分の口からこぼれたとしたら、そのとき胸の中にある「失うもの」の像は、いったいどんな輪郭をしているのだろうか。