同じ三千円なのに、払うときと受け取りそこねたときとで、手に残る重さがまるで違って感じられるのは、なぜなのだろう。

喫茶店の朝

いくつかの朝を寄せ集めた仮の場面として書いておく。早朝の喫茶店で原稿の手を止め、文具店の通販サイトを開くと、限定色の万年筆が定価から二割引かれて並んでいる。その数字を眺めているうちに指はカートへ進み、住所を入れ、支払い方法を選んだ最後の画面で、送料と手数料が静かに足される。ここまで来たのだから、と私は思う。

同じ朝、証券会社のアプリを開くと、少し前に買った投資信託の評価額が、買ったときの値を下回っている。売って損を確かなものにするより、もう少し様子を見るほうへ、気持ちはひとりでに寄っていく。

行動経済学という呼び名

こうした場面を経済の問題として眺めようとするのが行動経済学だが、この分野に誰もが合意した一つの定義があるわけではない。OECDが2017年に公表した消費者政策の報告書は、経済の問題の研究に心理学の知見を取り入れること、という言い方を広く受け入れられた説明として紹介し、損失回避やアンカリング、フレーミングといった判断の偏りを取り上げている。

行動経済学の本を何冊も編集するうちに、私は偏りという言葉を、性格や病名のように扱わないよう気をつけるようになった。それはある条件のもとで観察される判断の傾きであって、誰かを診断するための札ではない。

研究に見える傾き

参照点と損失

1979年にカーネマンとトヴェルスキーが発表したプロスペクト理論の論文は、人が金銭的な結果を、手元に残る総額だけで測るのではなく、ある基準の点から見た得か損かとして評価することがある、と示した。同じ大きさの得と損を比べると、評価の曲線は損の側でより急になる。損失回避と呼ばれる傾向の、ひとつの表し方である。

同じ論文の選択問題では、確かな利益を前にすると危険を避け、確かな損失を前にするとそれを避けようとして危険を取りやすくなる傾向も示された。買値という基準を胸に置いたまま様子見へ寄っていく朝の気持ちを、私はつい、この話に重ねて読みたくなる。

手放すときの値段

カーネマン、クネッチ、セイラーが1991年に整理した保有効果の議論では、いったん自分の物になった品を手放すときに求める金額が、同じ品を手に入れるために払ってもよい金額を上回りやすいとされる。使っていない万年筆が引き出しに五本ある私も、その一本に値段をつけようとすれば、買ったときより高い数字を思い浮かべてしまうのかもしれない。

初期設定の重さ

いま選んでいるものをそのまま続ける傾向は、買い物の外にも及ぶ。米国の確定拠出年金を調べたチョイやレイブソンらの研究は、自動加入や、拠出率と資産配分の初期設定、先延ばしが、加入や貯蓄、投資の選び方と強く結びついていると報告している。セイラーとベナルツィによるSave More Tomorrowは、将来の昇給分の一部を前もって貯蓄へ回すと決めておく制度で、ある職場での最初の導入では、案内された人の78%が加わり、加入者の80%が4回目の昇給まで続け、平均の貯蓄率は40か月で給与の3.5%から13.6%へ上がった。

複利で増えていく道のりは、直感では小さく見積もられやすいともいわれる。退職貯蓄口座を対象に、複利を織り込んだ将来の所得の見込みを郵送したゴダらの大規模なフィールド実験では、見込みと加入の案内を受け取った人たちが、受け取らなかった人たちより拠出額を変え、年間の拠出を増やす傾向があったと報告されている。

あとから足される価格

米国連邦取引委員会の経済局が2012年にまとめた報告は、手続きが進むにつれて価格の一部を順に見せていく売り方をドリップ・プライシングと呼び、分けて示された総額を消費者が小さく見積もり、買うかどうかの判断が変わりうることと整合する研究を紹介している。

当てはまらないとき

ここまで並べると、人の判断はいつも傾いているように読めてしまう。けれど、割引の表示や最初に見た値段、並べられた順序が判断に影響するとしても、その大きさや向きは、商品や選択肢、見せ方、そして見る人によって異なる。

近道の考え方が、素早く、しかも悪くない判断にたどり着く方法になる場合もある。週に一度の買い物で、いつもの棚からいつもの牛乳を取るたびに損得を測り直していたら、買い物はそれだけで一日仕事になってしまうだろう。先に見た貯蓄制度の数字も、ある職場で起きたことであって、別の家計の行方を言い当てるものではない。

五つの欄

編集した本の節約術を自分で試して、三か月で投げ出したことがある。一方で、月替わりの「買わない実験」は六年続いている。続いたのは決まりが小さかったからだと、私は思っている。そこで、研究から着想しただけで効き目が確かめられた方法ではないが、迷ったときに紙の上で次の五つを書き分けてみる、という実験を考えている。

  1. 比べている基準の金額を一行で書き出す。定価なのか、買ったときの値なのか。
  2. 同じ出来事を、「得」の言い方と「損」の言い方の両方で書き直す。
  3. 何もしなかったときにそのまま続く初期設定を書き留める。
  4. 送料や手数料を足した総支払額を、最初に見た数字の横に並べる。
  5. いつまでに決めるかを日付で書き、その日までは決めないでおく。

欄を埋めても、正しい答えが浮かび上がるわけではない。自分がどの物差しで測っていたのかが、いくらか見えやすくなるのではないかと、期待している程度である。

手帳の端の数字

喫茶店の朝に戻る。送料の足された最後の画面を開いたまま、私は冷めかけたコーヒーを飲み、手帳の端に、定価と、割り引かれた値と、送料を足した総額を縦に並べて書く。三つの数字の下で、指はまだ、確定のボタンの少し上に浮いている。